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第107 - ウパーサカ僧の世界観

仏教の世界主義は、かの世界文化の最上を有すと自任する欧米人等の夢想だもする能(あた)わざる広大深遠のものであって、この主義の根拠は人間の諸種族を平等に認むるのみならず、一切衆生即ち総べての下等動物に至るまで、貴重なる仏性を有することを主張して、その生存権の保証を立つるために、不殺生戒を設立し、これを徹底する為に不食肉戒までも実行する。

この教義は人間生存権の平等に止らずして、動物世界の平等生存権にまで及んでいる。

かかる至大なる主義は他の種族を攻伐虐使(こうばつぎゃくし)することを、その天職かの如くに心得て居る欧米人には、到底夢想にも上らなかったのは当然の次第であった。

 

そうして仏教の世界主義を実行するためには、まず吾人は個人として自己を浄化して、自己の心地をして寂光土(じゃっこうど)に安住せしめ、進んで自己を向上し、自己が属する国家の浄化と向上とを計り、これを世界に及ぼして、世界人をして真の幸福を受けしめんとするのである。

されば仏教の処世主義は、その目的の上より云えば、世界主義の上に立てられたる国家主義であって、それが実行の根本は個人の浄化向上にある事は勿論である。

そうしてその主義実行の順序より云えば、勿論個人の浄化向上を何よりも急務として、次で国家と世界とに及ぼすものである。

もし自己を浄化向上せずして、国家主義や世界主義を談ずる者は、己れは飲酒しながら、他のために不飲酒を説くのと同一で、徒(いたず)らに蝉噪蛙鳴(せんそうあめい)を増すのみで、却って他を害する結果に終わるであろう。

 

もし仏教の国家主義が、世界主義の上に立つものとすれば、世界主義が主であって国家主義が従であるから、国家が世界平和のために、犠牲となってその存在を滅亡すること、恰(あたか)も個人が国家のために、その生命を捧ぐるが如きこととならざるかと難ずる者がある。

それに対して云うことは国家は個人に対しては目的である。

故にそれが目的とせられたる国家は、かの国民に対して自らを永久に持つの義務がある。

このような義務を国家自体は衆民に対して持っているのであるから、世界平和のためにもせよ、その自体を亡(なく)すことは出来ぬのである。

この点より見れば、仏教の国家主義は国家至上主義の如くに思う者があろうけれども、やはり世界主義の上に立つ国家主義であって、自国の存立を確保しながら、世界の平和に尽力するのである。

 

これ仏教の目的論上より見れば、世界主義の上に立つ国家主義が、実行の根本主義より決定せられたる方法と一致する所以である。

即ち世界の平和を確保するために、自国の存立を確保して、その浄化と向上とを計り、これを完成するために、まず国民各自の個々の浄化と向上とを計ることを、第一歩とする所以である。

故にウパーサカ仏教は世界の文化を進歩するために、我国民古来の美点を発揮し養成して、我国家の文化をして光彩あらしむるために、まず国民各自をして浄化向上せしむることを本能的作用とするのである。

 

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