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第106 - ウパーサカ僧の国家観

ウパーサカ僧は、実社会において向上的実生活に進行するものであるから、一切衆生に対して平等にその向上を計ることは勿論である。

これは衆生恩を報(むく)ゆるための対世界的行為である。

この点より見れば、吾人は自ら世界主義者であると云える。

 

併(しか)しながら吾人は実行不可能なる世界主義者ではない。

即ち自家安住の第一立場である自国の存在を否定して、世界主義に盲進するものではない。

吾人の本師釈尊は、一切衆生恩即ち世界恩を報(むく)ゆることを教えたると同時に、国王の恩に報ゆることを教えられた。

この点より見れば、吾人は国家主義者であると云わねばならぬ。

 

併(しか)しながら吾人の国家主義は近代流行の国家主義ではない。

かのひたすら自国の利益を増大する為に、他国を略奪してその国民を苦しめ、その発達を阻害する猛獣の如き国家主義ではない。

吾人の国家主義は世界の平和を謀(はか)り、真実の文化を進むる為に、まず自国をして真の和合衆なる一団とならしめ、真実文化の光明を発揮して、以て世界の国土渇望餓鬼や、貪権阿修羅や、英雄的亡者の欲望を、煙散霧消せしめんとするにある。

 

勿論これ等の亡者や、餓鬼や、阿修羅は、その本性として正義で貴重で真に世界一般の利益になる教を、心に了解する能力はないのである。

却って彼等は剣を磨き軍艦を大にし、飛行機関の速力を増大し、火薬や、化合薬の破壊力を極大にして他国を奪わんとするであろう。

彼等に対しては完全軍備の威力の外に、彼等を化する何物もないのであるから、この点については吾人は国力に相応して現代的完全なる軍備を調えることを主張する。

 

この軍備は文殊菩薩の慧剣の如きもので、悪魔に対しては殺人剣であり、正しい弱者に対しては活人剣である。

即ち我国は東洋の諸国に対しては、常にこの活人剣を以て保護せねばならぬ位置に居る。

特に吾人が観ずる大日本帝国は、古来この慧剣の持主である。

我国の武士道は、現今世界公許の戦術である市街投弾などの野蛮行為、即ち非戦闘員を殺すが如き戦法は、武士道の大に恥辱とする所である。

 

我国は世界平和のために、我国の武士道を世界に発揮して、自ら文化と称する世界の最も猛悪なる野蛮人を降伏させなければならぬ。

恐らくは世界においてこの仏教的正義を行うに足る資格あり歴史あるものは、我国を措(お)いて外に求むることが出来ないと思う。

 

聖徳太子が、身を以てウパーサカ仏教を我国に宣揚せられて、日域大乗相応地と宣言せられたことは、我国の世界に対する精神的位置を明言せられたものである。最も平和的なるウパーサカ仏教を以て、世界中最も適当したる処は我国であると、明言せられたその主旨は、この仏教の根本的平和主義を世界に宣伝して、各国をして各自の努力にて、世界の平和を根本的に統一せしめようと云うのであろう。

何故ならば、世界の平和を維持しなければ、我国の平和を保つことが出来ないからである。

 

特に我国の国体と歴史とは、全く世界の何処にも類例のないものであって、仏教渡来以前より歴代の天皇陛下は、全国民を赤子の如くに愛撫せられ、また全国民は一般に陛下を厳父慈母の如くに尊敬して、君民一体一家族となって発達していたことは、自然と仏教の大精神と一致していたのであった。

そうして仏教渡来後は、聖徳太子は身(み)自らウパーサカとして仏教発揚に全力を注がれ、益々(ますます)我国本来の使命を明かにせられ、国民文化の発展に尽瘁(じんすい)せられた事は、歴史の証明する所である。

 

また歴代の天皇陛下は身(み)自ら仏道を実践せられて、範を国民に示されたのであった。

皇族真如親王に至っては、求法(ぐほう)の為に南方支那を経て印度に向われ、身命を惜まず、暹羅(シャム)の北方よりして、道を老楇(ラウス)に取られて、遂に猛虎襲来のために命を殞(おと)されたと伝うるが如き、如何に正法興隆に真摯なものであったかを見るべきである。

 

かくの如く仏教即ち大乗的精神が我国に弥漫(びまん)して、仏陀の謂わゆる一切衆生みなこれ我子は、歴史上天皇陛下の仁政の上に実現せられて、他国の侮慢を受くる事なく栄耀(えいよう)安泰以て今日に及んでいる。

これを一方より見れば、広い世界主義の上に立った国家主義が完全に行われていたものと云うべきである。

 

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