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第10 - 天台教判中華厳時鹿苑時の無根拠

第一、釈尊成道後二七日より二週間に華厳一部八会の中、前分の七会を説かれ、後分一会はその後の説法とするのが天台の説であって、華厳宗では全部八会ともに第二七日の説法であって、一時に説かれたものとするのである。

何(いず)れにしても華厳の大部分は仏成道後第二週よりの説法であってこの説によれば仏の初転法輪は、古来歴史上確定せる鹿苑(ろくおん)における阿含(アーガマ)の説法でなくて、華厳経が初転法輪となるから、天台は歴史の事実を否定して居る。この否定は事実を無視せる驚くべき仮定説であって妄説の甚しいものである。

 

元来天台が名づけた華厳時などと云う説法時は、仏伝上何処(どこ)にもないのであって、華厳経は大方広即ち大布衍部の経典であって、仏観念界の所現である。

即ちこの経は説く人も仏、聴く人も仏、説く法も仏の心法で、受くる歓喜も仏の自受法楽である。この観念の大海を印現した後世の或大学者であった仏弟子が、即ち海印三昧に入って、その観念を大方広大布衍して説いたものが、大方広仏華厳経である。

これを確かなる仏伝について見ると、四分律に仏は樹下において結跏趺坐して、七日(第二の)思惟不動で解脱三昧に遊んで自ら遊楽す。(縮蔵、列五、九丁) 西蔵伝には第二の七日間においては仏は三千大千世界に遠く遊行せられ、第三の七日間に菩提樹を観て安坐せられた。(ラムナム・ンガバ、三九丁) とあるから、後世の或仏教大学者がこの解脱三昧の観念を、大布衍したものであると云うことは、承認することは出来ても、歴史的にその時代の人物に対して、仏が自ら説いたことなどとは、全く証明出来ない架空の妄説である。

 

もし華厳宗の説の如く、八会一時の説法とすれば、愈々(いよいよ)その架空の妄説たる事を自証するものである。

何故なればかの第八会なる逝多林(ゼータリン)会の如きは歴史的には全く説明の出来ない空想のものとなるからである。

それは逝多林と云う精舎は、仏成道の後第六年に給孤独(きっこどく)長者が祇陀(ゼータ)太子と力を合わせて、建てられたものであるから、仏成道後の第二七日には影も形もない道場であった。かかる処で説法せられたなどと云うことは、空想の所現でなくて何であろう。

仮りに天台の説に随(したが)って、第八会のみは後の説法として、その説法時を逝多林創建の年に説いたと仮定するも、その説時は天台自らきめたる華厳の時ではなくして、鹿苑の時即ち天台のいわゆる小乗を説いて居る時である。詳言すればこの時は天台の所説に随えば、小乗である阿含を説いて居る鹿苑時十二年間の中である。然るに実際の場所は鹿野苑(ムリガダハーヴァ)でなくして逝多林(ゼータリン)であり、説いた経は天台のいわゆる小乗でなくて、最勝無上の大乗華厳経を説かれた事となる。

これに依て見ても、天台の五時の命名判教の区別が、如何にも根拠のない架空の妄説であったことが判然するであろう。

 

第二に成道後の華厳時二三週間を除く十二年間を鹿苑時と言うも、阿含時と言うも、何れも甚だ当らぬことである。

何故なれば仏は鹿野苑(ムリガダハーヴァ)の初転法輪より、拘斯那掲羅(クシナガラ)城外の沙羅(サーラ)双樹間の入滅に至るまで、四十五年間機会ある毎に多くの場合に阿含(アーガマ)の経典を説かれたものであった。そうしてその阿含部の経典は、天台の所説に随えば仏教新入の初心者で、劣小下根の者等に対して説かれた小乗経で、いわゆる鹿苑時代に説かれた経典とするのである。

然るに実際は天台の所説に反して、入滅の当夜で将(まさ)に臨終せられんとするに当(あたっ)て、弟子等に対して最も肝要なる遺言を説かれたのが、即ち阿含部に属する遺教経(ゆいきょうぎょう)であった。

この一事を以てしても、鹿苑時代十二年などと云う、天台の説の根拠ないことが了解出来るであろう。

 

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